長門有希の黙想(古泉一樹の消失・番外編)



長門有希の黙想(古泉一樹の消失・番外編)



 夕暮れにはまだ早い時間だった。天蓋を覆い尽くす分厚い雲が、空を灰色に染めている。ふと見上げた観覧車の輪の向こう、雲の切れ間に、何かが動いた気がして目を凝らす。いや、光の加減か、蜃気楼のようなものだったのだろう。寄せた眉根を軽く揉んでため息をついた。自分では忘れた何かがあるのだろうか。終わりになった仕事なら気に病むことは何も無いと言うのに。やり残した案件の引継も無事に済んで、二日前から晴れて自由の身だ。

 仕事ばかりの生活で、気がつけば家族と別れての単身赴任がもう五年、子供の記念ごとにまったく立ち会えなくなってから、同じだけの月日が流れた。とどめとばかりに、かろうじて確保していた娘の卒業式の日程すら潰されて、もういい加減踏ん切りがついた。やりがいのある仕事だったし、人間関係も悪くない。けれどもこれでは家族と共に生きているとは絶対に言えない。

 辞表はあっさり受理された。誇張でなしに、24時間365日、丸ごと仕事漬けの生活だった分、体に風穴が開いたような喪失感はあるが、そこを吹き抜ける風に寂しさを感じるのは、むしろ権利であると、強がりでうそぶく余裕ならばある。『入学式、晴れるといいですね』、そう言ったのはあれは、やたら若い……お前、若いうちから、そんな嘘臭い笑顔を覚えるなよと忠告したら、いくらかはマシな苦笑を浮かべて俺を見送ってくれたあれは……同僚……同僚? 誰の事だ?
 
 堂々めぐりの思索は呼び声で中断された。顔を上げた先で、遊具の出口ゲートから駆け寄ってくる娘の姿が、瞬きの一瞬、わずかに――ブレる。

「おとうさん、もう疲れちゃったの? 」

 疲れたんなら休もっか? それとももう帰りたい? 瞼の上を押さえる顔を、下からのぞき込んで、心配そうに気遣う態度こそ大人びているが、そのくせ、渡してやった風船の紐をたぐり寄せて抱え込む仕草が、小さな子供のようで、愛らしくもアンバランスだ。風船を持ったままで乗るのだとだだをこね、係員の女性に苦笑された。むくれながらしぶしぶと、母親に風船の紐を託し、ころりと笑顔になって銀盤へと駆けて行く。乗り込んだのは馬車ではなく馬で、回転する舞台の上、ゆらゆらと揺られながら手を振り、はじけるように笑った。うんと昔に来て以来、家族でこんな場所へ来た事もなかったな、そう気づいて今頃、済まなく思った。昔、あの頃はまだ、静かに動く遊具にしか乗れなかった。

「ジェットコースター、もう一回乗ろうか」

 あの頃には皆で乗れなかったものを思い出し、娘に提案する。途端にあれはもういいよ、と娘は口を尖らせた。

「んー怖かったか? 」

 からかうように言うと、真っ直ぐな眼差しがこちらを見上げた。意識を何かが通り過ぎたような感覚に、どくりと心臓が音を立てる。一瞬の沈黙の後に、娘は静かに目を伏せた。並ぶのやだもん。他のにしようよ。それとももう帰る? おかあさんが、お手洗いから戻ってきたら、おとうさんが帰りたいならそうするよ……? 
 どれも楽しんでいたと思うが、あれは嫌いだったか、娘の機嫌を損ねてしまっただろうかと首をかしげた。

 ――雷鳴のような駆動音と悲鳴を撒き散らす赤いループ。天蓋から滲み出た血のような、灰色に刻み込まれた赤い痕跡。円の外側に撒き散らされる意識の隙間から、飛ぶように、奪われるように、時は過ぎる。ゴンドラを最下から頂点へと運ぶ、間近にそびえるもうひとつの巨大な円環は、意識の欠落を招く事無く穏やかに回帰する。そのどちらに乗ったとしても、一日の時間の全体に変わりはない。平等に、時は過ぎる。立ち止まり確かめる意味を見いださず、一時の興奮に塗りつぶされて、切り取られたそのほんの瞬間を、人はどれだけ慈しむのか――。いや、他人の事はどうでもいい。過ぎる時を惜しむのも、気にもとめずに立ち去るのも本人の自由だ。

 軽く首を振って凝り固まった首筋を解す。仕事を辞めたせいなのか、空いた時間に酷く敏感になった気がする。目の前の娘から意識を飛ばし、何故こんな事ばかり考えてしまうのか自分でも不思議だった。

「いや……疲れてはいないし、いいよ、ジェットコースター、嫌なら別に」

 それに今日は遊園地に隣接するホテルに泊まるのだ。夕飯の時間まではまだ間があるし、好きなものに好きなだけ乗ればいい。気が済んだならこれで終わりでも。でも、

「せっかくだから、写真買って帰るかな」

 そう、写真だ。きっと必死な顔で手すりにしがみついている。ほら、チケット売場の横で売っているだろう? 娘と自分が前の席で、娘の後ろに母親が座って。想像に、顔をほころばせて促せば、横で身を強張らせた娘が小さく叫んだ。

「ダメ!!」

 拒絶の激しさに、ぽかんと娘の顔を見た。

「ええと……?」

 嫌、だったのか。でもな、あんなの、ただの写真だ。そんなに変な顔もしていないだろうよ。ここ最近一緒の写真も無かったし、いいじゃないか。宥めるように笑いながら、そういえばと、首をかしげる。カメラを忘れて来たのは、存在すら失念していたのは何故だろう。今日の旅行は娘よりも寧ろ己が楽しみにしていたと言うのに。

 制止しようとする娘へ安心させるように笑いかけて一枚、自分が映っている番号を指さして窓口から受け取った。ほら、と戻り、目の横で掲げて見せようとしたその手を、スローモーションのように娘が払った。手からこぼれた紙片は、降り下ろされる鎌のごとく垂直に、鋭く地面に突き刺さる。素早くしゃがんだ娘が、飛びついて写真を掴んだ。瞬間、風が手と写真のわずかな隙間を吹き抜け、風に浚われて写真は高く、空へと舞い上がった。まるで、赤い光りの球のように。赤……赤が舞うのは、空、無人の、天蓋の灰色を背負って立ち上がるのは蒼い、蒼の……あれは。目眩に襲われて空を見上げたままの姿勢で後ずさる。失われた、一瞬。知り得ない筈の架空。あれは。――俺は。

 空を滑る写真は、階段下、中央広場の噴水の真上で制止した。吹き上げられまた落ちる水の循環、永遠にそこから逃れられない蒼の呪縛。水面へ戻る術を失くした飛沫だけが、風に運ばれて顔を濡らす。見開いた瞳を叩く水滴。娘が叫ぶ声が遠い。蒼い手に握り込まれる赤い光。断罪の蒼に絡め取られて目を閉じる。写真はあの蒼に飲まれて果てるだろう。そうして蒼はその身の内に祈りの全てを沈めるのだ――。

 足元の地面ごと突き上げられたような衝撃に目を見開いた。凍り付いた世界から、たった今、体を取り戻したかのように、強ばった体に一気に血が巡る。壊れそうに早い鼓動が響く頭の裏側にずるりと流れ込む、言葉としての意味を持たない、耳鳴りのようなもうひとつの音。収束する意識に下される循環の裁定。これは。

 噴水の横にセーラー服の少女が立っていた。色素の薄い髪と、その姿からだけでは年齢を推し量る事の出来ない、酷く幼くも見える黒曜石の眼差しには、年を重ねたものだけが持ちうる叡智が混じるようだった。動きを感じる間もなく少女の右手があげられて、落下する写真は青の奔流から逃れ、生き物のように軌道をねじまげ、伸ばした手の先に、するりとすいこまれた。手にしたものを一顧だにせず、少女はそのまま、右手を真っ直ぐに差し出す。

「あなたのもの」

 声の届く距離ではないが確かに聞こえた。横で娘が息を飲む。遠くから妻が駆け寄ってくる気配を感じながら、少女に向けてゆっくり階段を降りる。一歩踏み出すごとに空間が奇妙に歪む気がするのは錯覚だろうか。いや、歪むのではなく……むしろ彩度が明確になる。おぼろ気な輪郭が実体を持つ……。がくがくと震える足を引きずるように、少女の前に立った。周囲の音が消え、噴水の水が吹き上げられ、落ちて水面を叩く音だけが聞こえていた。
 震える手で少女の手から写真を受け取る。表に返した写真は、ごく普通の写真だった。娘と自分と娘の後ろの席に妻が座って、叫ぶような笑うような家族の顔。どっと汗が出て、力が抜けた。何に対する安堵なのか、目の奥が焼かれたように熱かった。

「北西の風、曇りのち晴れ、21時の段階で降水確率0%、明日は快晴。紫外線に注意が必要」

 自分に向いていると思わなかった少女の瞳が見つめているのに、ドギマギする。

「快晴?」

 そう、とうなずく姿に当惑を隠せずに、立ち尽くす。ぼんやりと空を見上げると、頭上を覆いつくしていた雲が消えていた。

「ああ、ほんとうだ」

 雲ひとつ無く晴れた空が夕暮れに染まり始めていた。薄い蒼で覆われた天蓋の裾が、没した太陽の残滓で黄とふちの赤に染められている。中空に浮かぶ月が、降り始めた夜の帳に、じわじわとその輪郭を浮かび上がらせている。園内の遊具のそこかしこに灯された星が、夕闇に同化したループで、ひときわ大きく明るく咲いた。今夜は星も綺麗に見えそうだ。明日は晴れ、そう言った。晴れるといい。雲に覆われた灰色の世界は、何故か酷く悲しい。いっそ曇りが雨にでもなれば、あの灰色の慟哭を幾らかは慰められたのかもしれないけれど。嘆きに呼応する癒しは無かった。全てを消し去るしか方法は無かった。これ以上、誰も、何も、失うことがないといい。――失ったものが何なのかはもう自分にはわからないのだけれども。

「数年ぶりの家族旅行でね、仕事を辞めたばかりで色々大変なんだが」

 これからは家族と一緒だしね、きっと大丈夫だ、と目の前の少女に笑いかける。何故かはわからないが告げようと思った。少女は何も言わない。

「おかげで娘の入学式には無事に出席できたし、この先は妻の地元に帰る事にして、条件はあとで煮詰めようと思うんだ」

「約三年で卒業式」

「ああ、そうだね。勿論それにも出ないと」

「あなたが望むなら式の日は必ず晴れる。そして必ず出席できる」

「え……」

「だから」

 願って、と、音を伴わずに告げる口の動きを目で追った。聞こえない言葉が意識の内に弾けて消えた。頭の奥でうなり続けていた音が遠ざかり、すっと軽くなる頭を振って、何度か瞬きをした。必ず、と断言した瞳にとまどう己の顔が映り、その脇を、晴れるといいと願ってくれた、いつかの誰かの面影がよぎる。
 願えば適うならずっと願おうと思った。娘の幸福も妻の幸福も。通り過ぎてきた場所で仲間だった大切なひとたち皆の幸福をも、出来る限りの力で心から。笑う君に、ありがとう、君の晴れた空もずっと願っている。ここからでも、もっと遠くからでもずっと。

「ありがとう」

 娘と妻が駆け寄ってくる。少しは離れた場所でためらうように立ち止まる。

「じゃあこれで」

 黙ってうなずく少女に背中を向ける。妻と娘が立っている。今日始めて顔をちゃんと見た気がする。すっきりと幼さの抜けた娘の顔立ち、もう中学生だものな。写真は大丈夫、今日はカメラを忘れたが、入学式の時の写真はちゃんとある。あの時もそうして二人並んだ所に、娘を挟んで反対側に自分も立って、三人で並んだ姿を、小学校からの長い付き合いの同級生の父親に撮ってもらった。お返しに相手の家族の写真も撮って、お互い笑って祝いを述べた。アルバムには入学式と卒業式の分だけ並べてまとめて貼ってある。一番昔の卒業は幼稚園、卒園式の謝恩会。お祝いで渡された風船とかぶせられた花冠姿で、写真の中で幼い娘が笑っている。

 娘の手に目をやって風船が無い事に気付くと、飛ばしちゃった、と先に答えられた。見上げる空にゆらゆらと遠ざかる影は既に色も見えない。もう良かったのか? と聞くと、もういいの、それだけはっきりと返事が来た。そうか。――ならば。少し考えて、拾ってもらった写真を渡す。慎重に受け取った娘は、妻と一緒に覗き込むように写真を眺め、表面を指でそっとなぞった。そうして先刻までの動揺が嘘のように、綺麗な顔で笑う。ああ、これで。これでもう。

『願っている』

 背中にかかる声に振り向いたが、噴水の前には誰もいなかった。気のせいだろうかと思い、行こうか、と、娘の手を取る。すこし考えて反対の手で妻の手も取る。
 そのまま歩き出そうとして、腕を引かれた。繋いだ手の先で立ち止まり、娘が手を振り、妻が頭を下げていた。肩越しに噴水を見るが、その前にも向こう側にも誰も居ない。

「どうした? 誰かいたのか?」

 何でもないわ、何でもないよ、二人の声がダブって、笑い声になった。
 星が散り始めた夜空にはふたつの光りのループがあった。雲の消えた夜空には赤も蒼も、もうその他の何も見えなかった。




 番外編・Fin



           Fin  番外編 

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消失 20090104 /帰還 20090404 /告白1 20090421 /
告白2 20090421 /告白3 20090511 /告白4 20090511 /
告白4を分割(4と5)・楽園(加筆)&修正再UP 20090524
長門有希の黙想(番外編)20090602



アムリタで見た夢・夢のほころびを補強。
お付き合いありがとうございました(礼
あとがきのようなものは、いずれ……

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