古泉一樹の消失



3. 告 白 1



 辿りついた仮定が答えならばどうすればいい。頭を殴りつけられたような衝撃で一瞬気が遠くなる。不安に浸され冷えきった血が、巡る体の内の全てを凍らせてゆく。俺の……――俺が。俺は。早すぎる登校を家人に訝られながら、眠れずにいた体でやみくもに坂を駆け上がる。門をくぐり文芸部部室へと、すがる思いで飛び込んだ。もう長い事その場所を守り続けたような様で、窓際の椅子に長門はいた。呼びかける前にページを繰る手を止め、膝の本に落としていた目をこちらに向ける。聞きたいことがある、言い掛けて今が早朝であることに気付いて瞑目した。このまま何を聞いても耐えられるのか俺にはわからない。不審な態度は確実にハルヒに不安をもたらすだろう。それは嫌だ。閉鎖空間の出現の有無ではなく、ハルヒがこれ以上辛い思いをするのは、俺が嫌だった。
 目を開くと黒い瞳が見つめていた。すまんあとで、公園に午後七時、いいか、と震える声に、こちらを見たまま微かに頷いた。

 夜。以前に待ち合わせた公園のベンチで、長門は既に待っていた。わかるだけでいい、言えない事があるならそれはいいから、古泉の事を聞きたいんだ。外灯の下の人影に気付いて、降りた自転車を引きずりながら駆け寄って俺は、そんな言い訳めいた言葉で長門にすがって。

 ――…… 身の安全は古泉一樹の身の安全は確保されているさらわれたりはしていない秘密がバレたからとか何を秘密とするのかは判断できないがあなた方が共有している事とは関わりはない消えるのは急な事だったかわかるか例えば連絡が夜中に急に来たとか姿を消した日の事は予定されていた彼は予定通りに行動したならば何故消えたあいつは俺に何か合図をしようとしていたか俺は何か見落としていたかそれはない ……――

「けれども貴方が聞くなら答えて良いと伝えられている」

 長門。

「聞いた上で貴方の同意の元、貴方の記憶を消してくれるように、とも」

 そんな話は聞いていない。


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 目を開けると上段のベッドの裏板が見えた。俺の部屋だ、昨日あのまま眠って……眠って? むくんだような目元に手をやると頬がバリバリと固まっている。昨日泣いて、そうだ古泉、古泉が来て……! 飛び起きるなり眩暈を感じて、またうめきながらベッドに倒れこんだ。閉じたまぶたの上から目を押す。授業を休めと言ったな……バイトまで。まあこのザマでは多分戦力にもならないだろうから止むを得ないが、せめて連絡だけは早めにしておかなければ。
 バイト先にわびを入れ、友人に講義の代返を駄目元で頼み(成功すれば御の字という意味での駄目元だ。失敗してももとより責めるつもりなどない)通話を終えた携帯を脇の机に置く。ベッドに腰掛け、ひざにひじをつき、前かがみで額を押さえる。何をしていたかご存知です、と告げた古泉――ロックの解除。ああきっと欠片を思い出したんだ。先刻まで見ていた夢には、俺が覚えていたのとは違う続きがありそうだった。俺の記憶に残っているのは、合図も何も無かったと長門に断言されたところまでだ。

 それで? 続きは。
 ……頭の暗がりに沈む記憶がゆっくりと渦を巻き、溶けながら回る残像の中からあの時の風景が浮かび上がる。

 長門は一瞬ためらったようだった。

「情報統合思念体が経緯を見守っている。私には直接の手出しは出来ない」

 どういう事だ。古泉を見守っている?

「観察対象になっているのは、古泉一樹の属する機関の一部。彼らの実験が有効か実現の可能性はあるのか」

 何の実験なんだ。

「鍵の鋳造」

 ……何だって?

 まっすぐに見上げる漆黒の双眸の向こうに、こちらを凝視する無数の意思が現れて消える。――そんな気がした。

「彼らは鍵のスペアを作ろうと試みた。古泉一樹を使って」

 スペアだって? 

「貴方を遠ざけ、貴方の位置に古泉一樹を据え、神を制御しようとした」

 ひどく単純でひどく初歩的だ。それは今更な話じゃないか? そんな事を今、いやあの時もくろんでいたと?

「彼らは本気で鍵をすげ替えようとしていた。彼等が自由に鍵を使役する為に。古泉一樹と彼を守る者は、古泉一樹が利用されるのを防ぐ為、計画が動く前に、彼を隠した」

 ……ああ。

「涼宮ハルヒを不安にさせる要素は最小限にすべきと言う考えから、貴方自身に危害が及ぶとは考えにくい。けれど遠い要因を組み合わせ、貴方を涼宮ハルヒの生活圏から引き離す事は、可能」

……それは。

「貴方の知人、地縁の者の生活や健康に何がしかの妨害を加え、貴方や貴方の肉親が、彼らを配慮せざるを得ない状況を成立させる。看病に行く、仕事を手伝う、留守を守る、涼宮ハルヒが納得せざるを得ない状況を作り、貴方をこの場所から引き離す。そうすれば自然な形で、古泉一樹を涼宮ハルヒのサポートに置くことが出来る」

 そうすればハルヒの意識が古泉に向くって? ハルヒが古泉を気に入ってれば、古泉がハルヒの機嫌とりさえ失敗しなければ、閉鎖空間だって生まれないだろうって話か? 馬鹿な。今だって誰とどんなに楽しくやってても、理不尽な事は起こるし、そんな状況では怒る方がむしろ真っ当だ。仕方ない。運が悪けりゃ閉鎖空間が発生しちまう事に、変わりは無いじゃないか。それに俺達はもうとっくの昔に団結した仲間で、誰が誰の代わりとかはありえない、考えるだけ無駄な話だ。気に入るか否かで言えばハルヒにとって古泉は、もうとっくの昔に別格だ。今更過ぎる話だろう。

「勿論それは機関も理解している。それでも一部の者は計画を諦めなかった。スペアキーの設定は最終目的の為に準備されたものだから」

 まだ何かあるのか。

「一つ消滅してもまた直ぐに次の閉鎖空間が発生する日々に、最も疲弊していたのは当然能力者達。しかし未来の展望が見出せない事に、機関の者たちも日に日に磨耗していった。その状況の中、一人の科学者が一縷の望みを賭けて薬品を開発した。薬にはただひとつの効用さえあればよかった。ほんのわずかでも神の怒りを和らげ心を安らかに保つことが出来さえすれば良い、と。治験も万全とは言えない、仮に安全との結論が出ても果たして神に使用することが許されるのか、確かにそれが安定をもたらすものなのか。答えられる者はなく、ほぼ完成したまま取り残されていたそれを」

 まさか。

「古泉一樹が鍵ならば、どんな供物も神に捧げる事ができる。機関の意図が介するものであろうが、鍵が捧げるそれを神が疑い退ける事はない。科学者のつけた名はアムリタ、神の水。霊液。神話で不死をもたらすもの。初期の実験では被験者の精神状態に引き摺られ、自ら生み出した悪夢に発狂しかけた者も出たが、中断されていた開発が再開された結果、最終的に彼らは悪夢の放逐を可能とした。一定量を搾取した後、体は眠りから覚めなくなる。栄養と共にアムリタを送り込み続ければその眠りは平安に満たされ、固体の死を迎えるまでそれは続く。世界は涼宮ハルヒの夢にとり込まれて楽園となる。機関の一部・狂信派と呼ばれた彼らが望んだ、それが未来 」

 ふざけるな。

「ええ。本当に」

 うつむいたまま目を開く。視界に自分の膝と目の前に立つ男の足が見えた。こいずみ。

「ふざけた、馬鹿げた話です。あなたの身代わりだけでもおこがましいのに、そんな怪しげな薬を僕が」

 どこか寂しげな声で、澄んだ目を歪ませて、顔を上げた俺にそれでも微かに笑ってみせた。

「涼宮さんに、飲ませられる筈なんか」

 ああ、無理だな。

「嫌です。酷すぎる……馬鹿な……だ」

 消えるような声。古泉。俺の声に、目の前の男がびくりと身をすくませて目を逸らす。何があった。ちゃんと話せ。

「それは長門さんにご説明頂いたと思うのですが」

 思い出されましたよね? などと念を押す。ああ、思い出されたおかげさまで大学もバイトもお休みですよ、と不貞腐れれば、男はスミマセン、と苦笑する。そうじゃない。あの時あらかたの説明は聞いたのだ、と思う。それで聞いた上で消して貰ったんだな? 俺は。

「薬品の効用を観察したい訳ではなかったようですが、鍵の鋳造に関しては長門さん……の上の、情報統合思念体も興味があったようで、不干渉を指示されているのだと言われました。果たして近しいものならば鍵となり得るのか、それとも別の要素が絡んだからこそ鍵とされるのか、「上」はその件を検証したかったのだと。それでも長門さんは貴方への伝言は受けてくださるとご自分からおっしゃいました。ただ貴方が計画を知っていることで狂信派……が暴走する可能性も無きにしも非ずでしたので、伝えた上で、もう一度全て消していただくように、僕からお願いした次第です」

 それは判った。説明された上で記憶も消した。それで?

「それで……それで説明は全てですが」

 嘘だな。見上げた先で男がびくりと身を震わせて、半歩下がった。目を逸らすな古泉。それでその狂信派とやらはどうなったんだ? 全部終わりか?

「あ、ええ。スミマセンそうですね。終わりました。一派は捕らえられて……そのあとどうなったか、僕は教えて貰えませんでしたが、その、死んだりは……していないと思います。」

 言いづらそうに告げて、それでも、どこかほっとした顔でこれでもう戻ってこれます大学はこれから受験になりますので、貴方よりも一学年下になってしまいますね……などと、どこを受けるのか知らんが受かるのが前提か、たいしたものだな。

「いえ、まあ、姿を隠していた時もやる事がなくて、勉強したりもしていましたし」

 最高学府を目指せとでも言われなければ、多分大丈夫だと思いますよ、などと微笑んでみせる。それで古泉。

「はい」

 何を隠してる? 全部言え。
 笑顔のまま男は凍りついた。古泉、呼びかけに答えは無い。


     3      Fin  

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20090524 改定

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