古泉一樹の消失



1. 消 失



 つい昨日別れた相手に朝の挨拶をするような穏やかな笑みを男は浮かべていた。雑誌のページから切り抜かれたモデルのようにすらりとした仕草で右手を挙げて、横を通りすぎてゆくギャラリーの皆様からまんべんなく視線を集めている。記憶にあるよりも背は高く心持ち頬のラインが鋭くなり、柔らかくウェーブのかかった髪は文芸部部室で眺めていた頃よりは短めで、くそ、はっきり言うのならば男前度が無駄に増している。何割増なのかはいまいましいので触れない。ちらちらと目をやりながら連れとささやき交わす者、ほんのり顔を赤らめながら通り過ぎてゆくお嬢さん方や、ぽかんと立ち止まる者も居る。ちなみにうっかり立ち止まり、あわててまた歩き出すものは男女問わず、だ。あっけに取られる感覚が優先されるせいなのか同性の視線にも嫉妬は混じらない。まったくいまいましい。

 男の視線の先で立ち止まる俺を見つけて何か問いたげなゼミの友人の顔が他人の頭ごしに見えた気もするが詮索の一切は後にしてもらおうか。とにかく俺は自分の大学の校舎の正面玄関から出て直ぐのアプローチの人ごみから、数段の段差を経て正門へ続く広い道の真ん中、人波の中に微妙に出来た空間の中心で(そりゃあそうだろう遠巻きにもなるさ)昔なじみの顔を見つけたのだ。

 俺は。

 あいつの顔を見た瞬間に根が生えたように動かなくなった足を無理矢理地面から引き剥がし、目の前の段差飛び降りた。近付いてくるあいつから目を逸らさぬまま無言で、互いに手が触れる距離まであと一歩、その間合いを大股の一歩で自ら縮めて、困惑混じりに足を止めた男の腹に、握り締めた拳を叩き込んだ。


***********


 こんな時にそんな話かと俺は思った。そう思った俺にあいつも気付いた筈で苦笑しながら目を伏せ、顔をあげてそうしてそれから真剣に言ったのだ。きついくらいに握り締められた二の腕の痛みと共に、俺はそれを信じた――信じたかった。

「あなたにだけはお知らせします」

 もし僕が機関の命でどうしても姿を隠さなければならなかったり何らかの理由があってこの場所を去らなければならなくなったとしても、例え告げる事を禁じられたとしても、あなたにだけは。何か合図か、印か、視線か何か、形に残るものは避けねばなりません。けれど僕はあなたに必ず知らせてから、そうして必ず、必ず帰ってきます。だからその時は――。

 絶望的な顔でそれでも笑おうとしたあいつの言葉ごと、自分から押し付けた口の奥に飲み込んだ。わかった、判ったからこいずみ。そうくりかえして泣き出す直前のような顔の男を両手で胸に抱え込んだ。初めて抱き合った日のことだった。約束をされたのは来るかもしれない別れの日の約束だ。そんな日が来ないようにと祈りながら、俺たちは互いの熱に溺れた。

 だから俺は何度も繰り返しなぞってしまったのだ。「また明日」と別れた十字路で、軽くあげられた手の仕草に、こちらを見送る視線に、何か込められたものがありはしなかったかと。何一つ変わらないと思えた「また明日」と言われた、その日までにあいつが俺に告げようとした痕跡は無かったかと。気が狂いそうになりながらあいつの行動の全てを記憶に辿り、そうして絶望した。約束された筈の何かは何処にも無かった。古泉はハルヒにあてた短い手紙だけを残して煙のように消えた。

 気付いたときには空になっていたあいつの部屋の中でハルヒは怒り狂った。きっと閉鎖空間だって発生しただろうに機関は一体何をしたかったんだ。後から知らされた話によるとその時ハルヒの力は表面化しない程に消えかけていたらしい。更に言えば古泉の失踪はハルヒの力の弱体化に関わる、酷く愚かな策略を回避する為のものであったのだけれど、当然俺たちはまだその事は知らず、せいぜいがもしもこれがハルヒの反応を見る為の失踪だとしたら、あまりに下手すぎるやりかただと、吐き捨てるくらいの事しかできなかったのだが。 そこまで考えて別の可能性に気付いて俺は顔をこわばらせた。――俺との事がバレて、そうして古泉が何処かにやられたのだとしたら。ぐるぐると部屋が回るような気がして、吐き気が込み上げてきた。ハルヒが直接の原因ではなく、寧ろ俺のせいだとしたら? そうなのか? 古泉。

 乗り込んだ職員室で食って掛かられた9組の担任も、転校の理由を家庭の事情としか知らされておらす俺たちに消えた古泉を探す術は無かった。俺たちに出来る事は何も無かった。何の成果もないままとぼとぼと辿りついた部室でハルヒは再び逆上した。

「どういう事なのよ?! 何で何も言わずに居なくなるのよ?! 古泉君が」

 怒りのままに叫んだハルヒだったが

「…………でも」

 朝比奈さんは既に卒業し、古泉も又消えた。急に広く感じられるようになった部室で、子供のように俯いたハルヒを抱きしめたのは長門だった。たぶん何か訳があったのよね。でなきゃ急に転校なんかするわけないもの。消えるようなハルヒのつぶやきに俺は返すべき言葉を持たなかった。

「……居なくなる事怒るって思ったのかしらね」

そうだな。そう思って言えなかったのかもな。そんな相槌しか打てなかった。すまんハルヒ。すまん長門。すみません朝比奈さん。

「長門、聞きたいことがある」

 呼び出した公園の外灯の下で、長門は黒い瞳で俺をじっと見つめ、かすかに頷いた。

「古泉一樹の身の安全は確保されている」

 さらわれたりは

「していない」

 ためらった後にそれでも聞かずにはいられなかった。

 ――……秘密、が、バレた、から、とか……

「何を秘密とするのかは判断できないが、あなた方が共有している事とは関わりはない」

 消えるのは急な事だったかわかるか? 例えば連絡が夜中に急に来たとか……

「姿を消した日の事は予定されていた。彼は予定通りに行動した」

 ならば何故消えた。それ以上は聞けなかった。探せば良かったのだろうか。長門に頼み込んで、可能ならばどんな手でも使ってあいつに辿り付けば。そうすればよかったのかもしれない。だが俺はしなかった。打ちのめされていた。気付いてやれなかった? あの泣き笑いの告白と痛いくらいの抱擁、あの時の誓い。あいつは、俺に何か合図をしようとしていたか? 俺は何か見落としていたか?

「それはない」

 ならば俺に出来る事は何も無い。――もう。
 顔を覆い隠した右の手のひらを塗らして、生暖かなものが頬を伝い零れ落ちた。

 取り残された俺たちは身を寄せ合うようにして卒業までの日々を部室で過ごした。ハルヒを慰めていたのは変わらずにそこに在り続けた長門で、その頼もしさは俺など足元にも及ばない。一時弱体化していたハルヒの力も、皮肉な事に古泉の失踪がその引き金となり元に戻ったのだと、しばらくしてから長門に聞いた。良かった、と俺は思った。何に対するものなのか、ありがとう、と言う俺に、長門は少し考えてからうなづき、そうして又少ししてから私はこに居る、と付け足した。長門はハルヒの傍に居てくれるのだ。少なくとも力が消えない限りはこの先もずっと。ありがとう、ともう一度つぶやいて、沈んだ心の裏に潜む後ろめたさには気づかない振りをする。閉鎖空間は誰が壊しに行くのだろう、古泉もどこか知らない場所で黙々とあの空を壊して居るのだろうか、気がつけばそんな事ばかりを考えている自分に嫌気がさして、首を振ってその考えを追い払った。

 長門とハルヒはそろって同じ大学に入学した。その頃はもうハルヒは光り輝く外向きのエネルギーのようなものを取り戻していて、相変わらずの騒々しさとはた迷惑さを周囲に撒き散らしていた。一度下手な気遣いで沈みがちだったハルヒの機嫌を余計に損ねてからは、本人からきつく言い含められたのを受け入れて、それ以降は全てに気づかない振りをした。

 俺はなんとか補欠で滑り込んだ別の大学に通いながら今までと変わらず二人と連絡を取っていた。ハルヒは寂しさが募ると他大学だろうが試験中だろうが乗り込んできて、俺の学部の友人を驚かせたものだが、まあいい加減それにも慣れた。慣れたと言うのは主に俺の周囲の連中がだが。国木田や谷口に似たような感覚で笑ってくれるいいヤツラだ。せっかく無難にまったりとした倦怠キャンパスライフを送ろうと思ったがそれも適わず、あいも変わらず微妙に目立つポジションに立つ事になってしまったがそれも又やむを得ない。

 ハルヒを気遣って、留学中の名目の朝比奈さんからも時折連絡が入った。外国よりもさらに遠くからの気遣いは、ハルヒを何時でもひどく嬉しがらせた。朝比奈さんが古泉が消えた事情を知っているか否かは確認していないので知らない。それは朝比奈さんが悲しそうな声でごめんなさい、禁則事項です、と目を伏せる姿が容易に想像できて申し訳ないからであって、断じて俺が古泉の消息を知るのが怖いからと言う訳ではない。

 「また明日」と別れてから卒業まで半年。気がつけば又同じ事を考えている自分に呆れつつ、卒業してから半年。俺は同じ事を考えざるを得ない自分にうんざりしつつもそれを許してやる事にした。治らない傷なのか治すつもりがないのか、もうどちらでも構わない。抱えたままで良いのならば、好きなだけそうすればいいのだと諦めて、 俺は。


***********


 だから俺は俺の斜め後ろで腹を抱えてしゃがみこんだ男を一瞥しただけで何も言わずに歩き始めた。

「ま、まってください…!!」

 大体こんな場所で再会劇を始めようなんて思う方が間違っているんだ。見ろ周りの皆様のぎょっとした顔を。

「話を聞いてください…!」

 お願いですから、などとそんな顔で懇願するな。何の話をしようしているか考えろ。街中で叫ばれる危険をかんがみて正門へ向かう事は諦める。バイトが無い日で幸いしたな。赤貧である俺はバイトがあればいかな古馴染みでいわく付きの相手でも、あっさり捨てていく所存なのであるからな。古泉はさっき殴ったダメージが地味に効いていているらしく、素であれば容易に縮められる距離(コンパスが違うんだ悪かったな)を保ったままで、PRGのパーティーメンバーのごとく俺の後ろに付いて来る。先頭が一般人で次が限定超能力者、以上、と言う面子は華やぎにも実践力にも欠けており全滅フラグが立っていたとしても不思議はない。


 正門よりは人が少ないとは言え、まだちらほらと人影も見える中庭に着いたが、大声で叫ばれたら見咎められるのには変わりないのでもう少し奥へ進むことにする。足をもつれさせたまま必死に追いすがる気配に背を向けたまま、人影のない木陰の奥で足を止めた。

「は、話を」

 聞いて頂けますか。腹を押さえて微妙な声色で切り出す男の声も記憶のままで、俺は。

「……こちらを向いては頂けませんか…」

 暗くつぶやいたあとに始められたたどたどしい必死の謝罪と懇願と事情の説明を、背を向けたまま上の空に聞きながら、俺は。破られた約束の後半部分、守られた約束部分について、いつ応えてやるかそれだけを考えていた。


 ――必ず、戻ってきます。だから。
 ――判った、待ってる。絶対に待っているから。


 「おかえり、古泉」


           Fin  

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20090524 改定

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