古泉一樹の消失



2. 帰 還



 見開いた眼からあふれた涙は古泉の頬を濡らしていた。しゃくりあげる度にまた零れる滴りを手の甲、足りずに手のひらで乱暴にぬぐい、顔を歪めて俯く。嗚咽の先でこぼれてゆく綺麗な水を追ううち、湧き上がる熱の塊に胸が塞がれて息が詰まった。あえいだ先で漏れる呼吸は細く、警笛、あるいは悲鳴にも似て――……

 スミマセンごめんなさい止まりません。

 とぎれがちの謝罪で我に返った俺だが、別に浮ついてなどいないし、冷静を装って装い切れて居ない訳でもない。くどいようだが多幸感に酔いしれたりもしていない。お前が落ち着いたらとりあえず移動するからな、と、それだけ言うのに声が裏返り、思わず目を逸らす羽目になったが、うろたえて居る訳でも、ましてや仕草に見惚れていた訳でも、決してない。(泣いている古泉は多分、何一つ気づいていないのにホッとする)
 その後の話になるが、いくら待っても男は落ち着かず、話も出来ないまま変わらず泣き続けたので、お前は小さい頃のうちの妹か、と溜息をついた。要するにあれだ、突っ立ったまま待っていた時間は実に無意味であったと言う訳だ。やれやれ。

 そんな状態では電車に乗るわけにも行かず、俺のアパートまで二駅分、またしても前後に連れ立ってパーティーメンバーよろしく歩いて帰るハメに陥った訳なのだが、郊外のキャンバスから自宅への帰還とは言え、山の中の一軒屋へでも戻る訳でもなければ当然、住宅やら商店街やらをも通らざるを得ない。どんなルートを選択したとしても地理的に線路は越えざるを得ず、越えるのは踏み切りか地下道かさもなくば二倍以上の遠回りになるが陸橋か。選択の幅はそう広くないが、服の裾をつかみながらぐずぐずと鼻をすするイケメンと俺との二人連れは、どうあがいても悪目立ちするのは避けられない。かと言ってこの先、卒業まで同じ場所に住まうつもりならば、人目を避ける努力は放棄すべきではないのだ。今の場合に限って言えば、「ひとけの無い安全な道」などはそうそう無いのだから、世界と俺とご近所の平和の為に、とりあえずお前は泣き止め。あと裾から手を離せ、伸びるだろ。

「嫌です」

 ステータス異常を起した超能力者は、状況の改善に真にもって非協力的だった。二人しか居ないパーティーメンバーの意思を尊重しないとはおよそ紳士の振る舞いではない。

「紳士じゃありませんから」

 うるさい、そんな事は端から承知だ。後ろから聞こえてくるすすり泣きががいつしか静まり、短く返される声が落ち着いてきた事に、正直俺はまったく気付いていなかった。どれだけ動揺していたのかと今にしてみれば恥じ入るばかりだ。線路越えのルートとしては一番ひとけが無いとは言え、陸橋では流石に他人とすれ違う事も有ったが、そこでも何とか不審な眼差しで見られる事だけは回避できたようだった。
 
 俺たちはそのままアパートまで歩き続け、どうか顔見知りの誰にも見咎められませんように、と言う更なる願いも天に通じたのか、近隣の誰にも出くわすことが無かった。もしもこの状況が窓から見えたとしても、同様に不問にして頂ければ誠にもって幸いである。二階への外階段を上がり、一番奥の自室のドアに鍵を差し込み、開錠した瞬間に、ひとつの解法が俺の脳にひらめいた。そうか、コンタクトにゴミが入って涙が止まらなかった事にすればいいか。

「なんですか、それ」

 俺の後ろで古泉がもごもごと声を出す。ようやく泣き止んだか、とドアを開きながら俺は振り返った。お前の惨状とこの(と、服の裾を握り締める手を指して)妙ちきりんな状況の絶妙な言い訳を考えてやったんだよ。コンタクトにゴミが入って涙が止まらないヤツを、目立っちゃ可哀想だと電車にも乗せずに、てくてく歩いて人助けで俺んちまで誘導してやったんだよ。喜べ。
 泣き過ぎで赤く腫れた目元に加えて、涙の跡で頬をばりばりにした情けない顔に、微妙な不満を浮かべて古泉は言った。

「帰って来る間、あなたはずっとそんな言い訳を考えていたのですか……」

 何か文句でもあるのかこの野郎。流石に腹が立ったのでもう一回殴っておくかと拳を握る。泣いている相手にするのは流石に気が引けるが、今はもう泣き止んだ事でもあるしな。

「いえ、やめてください。もう充分です」

 にっこり笑いながら一歩さがった古泉は半分閉じかけたドアにぶつかり……って、そういえばここは玄関で、俺たちは部屋に入りかけたまま問答していた。ここで目立ってはせっかくのカムフラージュが無駄になってしまう。古泉、とにかく内に入れ。

「……お邪魔致します」

 部屋をかたずけておけばよかったなどと今更なことは言わない。色々散らかっているものもあるが高校時代の古泉の部屋よりは随分とマシだからだ。(あれは実際腐海だった。今となっては懐かしい気がしなくもないが、もしも現在進行形で今もあの時と同じならば、懐かしさなんぞ捨て去ってきっちり掃除しろ)入って直ぐに小さな台所とその横に風呂とトイレ、奥は狭い四畳半で二段ベッドと本棚で部屋の半分が埋め尽くされている。


「あれは……」


 ああ、二段ベッドな。古泉の視線を追って縦の空間をも埋めるベッドに目をやる。前の住人が置いていったらしくて、大家さんが、撤去しなくてよければその分敷金まけてくれると言うからそのまんまにしてある。物も置けてわりと便利だし。

「そうなのですか……」

 僕はまた、と小さく言い掛けて、口をつぐむ。それには気付かないふりで、俺は促した。それで?

「それで、とは?」

 一瞬ひるんだように目をそらし、古泉はうかがうような眼差しで俺を見た。話があるんじゃないか? だからついて来たんじゃないか?

「聞いて頂けるんですね? どこまでお話しましたっけ」

 ああ、とホッとしたように力を抜いて、首を傾けながら古泉は指先で前髪を払った。その仕草を見るのも久しぶり……だ。あ、悪い。正直中身は全然聞いていなかったんだが。

「……それでは最初からお話致しましょうか」

 ひくり、と顔がひきつったのは多分見間違いじゃないな。うむ。
 こうして二人して部屋の真ん中に突っ立ってるのも何だから、適当に座れ……と促そうとして、口を開いて、また閉じた。今更気付いた。今更気付いた事に気付いて、余裕が無くなった。誰かがパニックを起したら、出遅れた者が逆に冷静になってしまうとか、そういうのがあるだろう。今の俺は正にそれだった。先に大泣きされて妙に冷静になっていたが、そうだ、俺だって。俺も。心臓がはねて、声が出ない。

「……どうかされましたか?」

 気遣うような声。こいつが消える前に、毎日の様に聞いていた口調。しなくてもいい気遣いまでしていた。間近でささやく声に動揺して、馬鹿丁寧に人を扱うなと胸を押すとおどけたように手をひろげ、僕がそうしたいのですよ、とこちらが泣きたくなるような、作り物でない顔で笑ってみせた。

 急激に鼓動を早める心臓に驚いて、手のひらで服の上から胸を押さえる。ドクドクと頭に響く音。眩暈。……古泉、こいずみ、ちょっとお前、あっち向け。泣いた跡さえ顔から剥がせば、すっかりいつもの笑みにすべてを隠しおおせている古泉が、困惑を隠さずにそれでも言われるまま背を向ける。記憶にあるよりも広い背中だ。ほんの1年、たった1年、会わないだけで。


「……――っ……!」


 古泉の背中にぶつけるように額を押し付ける。抱きしめると言うよりしがみつく、に近い必死さで背中から古泉を掻き抱く。あせったような声で、振り向こうとするのを涙声で静止する。生きているのは知ってた。長門に聞いたんだ。それだけしか聞けなかった。俺のせいかもしれないと思ったら何も出来なかった。何か俺に言おうとしていた事があるなら、あったなら、何があっても追いかけようと。でも、無かった。無かったから古泉おれは。

「ごめんなさい……!」

 振り向くなり、抱きしめられた。とっさに振りほどこうとするのを更にきつく、胸に押し付けられた。

「どうしても行かなければなりませんでした。お約束した合図も、しようと思えば出来たんです。でもしなかった」

 何でだ。俺はもうその事ばかり、俺がお前からの知らせを見落としたんじゃないかとそればかり、夢にまで見た。
 僕が悪いんです、俺の肩口に顔を埋めて、古泉は苦しげにつぶやいた。僕が見たくなかったから、と。聞いていいんだな? 古泉。何をだ。

「あなたの、顔が」

 絶望に歪むのを。

 背中に回された手がゆっくりと降ろされる。見上げた先で告白を続ける古泉は、文芸部部室に居た頃よりは短いその髪で、それでもうつむく顔を隠している。


「僕が挨拶に一拍、間を置くだけでも、また明日、と告げないだけでも、あなたはきっとわかってくれた事でしょう。理解したあなたの絶望を、その顔を、僕は見たくなかった」


 最後に見た顔はいつもどおりでありたかった、だから何も言わずに別れた。いつもと同じように。

「じゃあな、と去ってゆくあなたの後姿をいつものように見送りたかった。ごめんなさい。僕が全て悪いのです。全ては僕のエゴです。それがあなたをこんなにも苦しめてしまった」

 せっかく落ち着いた感情の海がまた揺れている。震える言葉から唇から零れ落ちる度、一気に氾濫しそうになる。ああ、それならばきっとそれはお互いさまなんだ。俺も泣き笑いのお前の別れの顔を見ないで済んだんだから。
 手を伸ばして古泉の前髪をかきあげる。くしゃりと歪んだ顔に、ほらまた逆戻りだ。瞳からこぼれる綺麗な水が、やけにぼやけてにじんで、見えなくなる。目が熱い。

「泣かないで」

 泣いてない。泣いていないんだ。こいずみ。だってもう泣かなくていいんだろう?

「そうです。戻ってきました。もう何処へも行きません」

 古泉の顔に手をのばしたまま、急激な眩暈に襲われて、そのまま胸にしがみつく。

「ロックが解除されました。明日は……スミマセン。授業を休んで頂くことになります。バイトもあるならそれも。申し訳ないですが」

 なんだそれは、どういう事だ?

「くわしくはまた明日……僕はちゃんとまた来ます。今は眠ってください。ただ」

 俺をそっとベッドに横たえて、髪をなでながら古泉は、

「ひとつだけ言える事は、僕が何をしていたか、あなたはご存知だと言うことです」

 薄れてゆく意識に言葉と、額に微かに触れた熱、それだけを残して、そうしてあとは何も判らなくなった。


    2       Fin  

-----------------------------------------
20090524 改定

Page Top