古泉一樹の消失



5. 告 白 3



 赤い異形と化した最初を覚えていない。機関に、カウンセリングで問われた始まりの日の記憶は、鮮烈だが同時に曖昧で、呼ばれるまま踏み入れた灰色の空の下、灯りに誘われる虫のように、蒼い巨人の元へ飛んだ、言葉に出来る事はただそれだけだ。使命への渇望、内臓を焼くような焦燥、少女の悲鳴に共鳴する脳。よく知る筈の街は眼下に遠く、巨人の周囲以外で世界の時は止まり、人の気配も無かった。精巧な贋物のような街を蒼い巨人が壊し続け、阻む全ての者を叩き落す。体の横を巨大な腕が通過した瞬間、少しの楽しさも無い幻の中で、唐突に、『それ』に気付き、恐怖し、また安堵した。説明できない衝動で家から飛び出した理由は、全て此処に、為すべき使命は此処にある。誰に理解される必要もない。僕はここで、神の為に、神の一部のあの蒼い巨人を屠り、そうして、いつか打ち落とされて、そこでそのまま死ぬかも知れない。

 目を開けると、医務室らしき天井が見えた。頭に鈍痛と、締め付けられる違和感がある。頭に手をやるとそれほど大げさではないが蒔かれた包帯に触れた。ベッドに横たわったままで、無事だった左腕の時計に目をやると、午前5時を少し過ぎた所を指している。今夜の二度目の閉鎖空間だった。最後の最後で油断して、振り回された腕でビルに叩きつけられて、それで……。顔をしかめながら身を起すと、微かに眩暈がする。眩暈だけで済む筈のなかった激突は、記憶に残るばかりで、頭痛と包帯、それ以外、体には少しの痕跡もなかった。
 今夜は二度。最初に赤い光になってから何度目なのか、何体の神人を狩ったのか、何度死にかけて生き返ったのか、記録を調べればそれら全てを把握する事も可能だろうが、自虐めいた回想に費やす時間など無い。ベッドに腰掛けたまま深く息を吐いて、ゆっくりと立ち上がる。身に着けていた学生服のズボンはあちこちが破けて汚れていた。上着は見当たらないが、おそらくそちらも使用できない状態なのだろう。新しいものを用意してもらわないと。いや既に部屋に帰れば用意してあるかもしれない。もっとも明日は報告の提出があるから、学校は休む事になるだろうが。

 ぼんやりと考え続けるのを止め、眠る為に医務室を出た。報告書の内容は目覚めてから考える事にする。安静が必要な負傷者以外なら、目覚めた時点で退出は自由だ。扉を開けて辺りを見回し、表示に添って歩き出す。規模の大きな機関の拠点には、実戦部隊が休む為の部屋がある。右手の指紋の認証で扉を開くそれは空室ならばどこを使用しても構わない。ふと右手を失ったならどうするのか、と考え、すぐに考えを頭から追いやった。右が駄目なら左だろう、それも無くしたら今度は目でも使うのか。あるいは、そこまで回復が追いつかないハメに陥ったなら、能力者としての任を解かれるのかもしれない。機関がどう判断したとしても最終的に、全ては神の思う通りなのだが。

 その神の意思によるものかは判らないが、能力者が閉鎖空間で受けた傷は驚くほど治りが早い。最初に負った傷が、閉鎖空間内に居続ける事により、神人狩りが終わるまでに完治する事もある。尤も受けた傷による衝撃は、精神にも少なからず影響を与えるので、ただ体を治す為だけにあの場に居続ける事は回避すべきだった。そうして。そこまで考えて苦く笑う。今日は二回で済んだ。一晩に何度も行きたい場所ではないが、むしろ神の嘆きが二回で済んだ事を喜ぶべきだ。酷いときなど一日中拘束され、一つ壊しては気絶するように眠り、また生じたそれを壊すために目覚めを強要され、泥の様な体を引きずってあの灰色の空の下へ、赴かなければならなかったのだから。

「なあ」

 誰も居ない廊下で、後ろから声がした。人の気配にまったく気付かなかった事に舌打ちしたい気持ちで、振り向く。能力者でもサポートでもない、見知らぬ男がいた。

「それ、あっち帰りなんだろ」

 それ、と頭の包帯を指差すのに、顔をしかめる。

「何か飲まないか?おごるよ」

 稀に他部署の機関員から接触を受けることがあるが、他愛もない好奇心から来るものか、さもなければ組織でのし上がる為の、情報収集が目的だ。酷く馬鹿げた派閥への時には勧誘すらある。付き合わされればされるだけ、こちらが磨耗するばかり、得るものはなにもない。

「すみませんが」

 これから眠るので、とやんわりと拒絶する。以前、あまりに反射的に感情を剥き出しにして断るのを、ため息をついた森に諭された。むやみに敵を作るのはお止めなさい、慇懃無礼でもいいので、礼の形だけは崩さないように。以来、相手が戸惑う程に、無駄な笑顔の仮面を被るように心掛けている。流石にこんなときには被りきれないが、それは例外だし構わない。ただの好奇心だったのだろう、男は、あっさりと踵を返した。

「そうか、じゃあしょうがない」

 また今度な。と手をあげて、去ってゆく背中をぼんやりと見つめていた。また今度に何だと言うのか。僕らには明日があるのかも判らないのに。


***************


「彼に会った、それが最初でした。それきりもう会う事もないと思ったのですが、彼はまた声をかけてきた。機関の通路で、今度は閉鎖空間帰りではない時に。無理やりコーヒーを渡されて、特に話もせず、僕は彼の意図が掴めずにイラついていました。飲み終わって退出しようとしたら、引き止められて、もう一杯飲むかと勧められて断りました」

「次に会った時には、勉強はどうしていると聞かれました。何か教えられる事があれば、と言うので半ばうんざりしながら、解いている最中の数学のテキストを差し出すと」

 教えてくれたのか。

「いえ、結局解けなかったのですが」

 何だそれ。

「小学校ですらつっかえるんだから中学では無理か……と彼は肩を落として謝罪しました。それからも、彼は何も求めませんでした。閉鎖空間の話を聞いて来る事も、しつこく引き止める事もない。僕は彼を警戒しなくてもいい人間と思うようになって、どこかで見かけた時、行き会った時に、他愛も無い事なら少しだけ話すようになりました。後から聞いた話では、彼には小学生の娘が居て、能力者の中に子供がいると聞いて気になった、ただそれだけだと。ええ、共通点は特に何も。写真を見せられましたが、顔が似ていた訳でもありません。僕も昔は小柄でしたもので、しいて言えばそれくらいです。僕の身長は、中二から三年にかけて一気に伸びまして」

 それはどうでもいい。
 
「彼は能力者ではありませんでしたが、突如与えられた『世界を守る使命』について、混乱しつつも、全てではありませんが、その事を家人にうちあけたのです。彼の事例は、他者から一定の理解を得られた幸運な例外です。他の多くは……特に能力者の殆どは、身内とは断絶状態ですから。こんな話、誰にも信じられなくて当然ですし、理解したならしたで、何の力にもなれないまま取り残されるのです。残す方も残される方も」

 その方が辛い、か。

「ええ。それでも彼には帰るところがあった。妻と娘が最初の告白以外に何も尋ねず、彼の帰りを待っていた。……まだ昼も夜もなく閉鎖空間が発生して居たころ、制服姿の僕を見て、卒業式か入学式、どちらかでも行けるといいんだが。そんな事を話していました。SOS団が出来て、僕は北高に送り込まれ、彼とはそれきり会いませんでしたが、涼宮さんが安定して、閉鎖空間の発生も数える程になって……。学校行事のスケジュールを確認している時に、ふと彼を思い出しました。今の状況ならきっと大丈夫だろうと思って。それきり忘れていました。……彼の事も。彼の家族の事も」

こいずみ。

「彼はそのどちらも得る事が出来なかった。失くしてしまった。全部」

それは。

「――卒業する前に、事故で二人とも……。最後の時に、彼は間に合わなかった」

「おそらくそれがきっかけです。誰かが死ぬような世界が嫌になった。だから狂信派に同調した。僕が必要だから、僕と面識があって油断もするだろう彼が接触してきた。誰も死んで欲しくないから神にアムリタを飲ませようとした。殺したい訳じゃない、死んで欲しくない。誰一人。だから」

 それは。

「僕を……かばって」

 お前のせいじゃない。

「被弾により脳が損傷を受け、彼は意識不明になりました。機関は彼に」

 古泉が大きく吸った息を、吐く。

「アムリタを投与しました……」

 楽園。


           Fin  

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20090524 改定

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