古泉一樹の消失
6. 告 白 4
「アムリタはそれ単独では何の意味をも持ちません。事前の準備が無ければ何一つ活用できない。使った者の夢が悪夢と化さないように、楽園とする為の正しい暗示が必要です。この件に直接関わった僕の動揺を、最低限に抑える為、いえ同じ立場だった同胞への同情もあるのでしょう、機関は彼にアムリタを使った。そうして誘導を、彼の夢を、長門さんに任せた」
長門……。
「本来、彼女の任務には関係ない、こんな依頼はお門違いです。けれども彼女は受けてくれた。影響を考慮すればそうするべき、彼女は僕にそう言いました。夢の修正は成功しました。彼は……醒めない眠りの中で夢を見ています。今も。機関に関わらなかった普通の生活の中で、失ったものを取り戻す、いえ最初から何も失わなかった世界の、夢を」
うつむいた顔は前髪で隠されて表情が見えない。拳は膝の上で小刻みに震えている。こいずみ、言いかけた俺を早口でさえぎった。
「違うんです。あなたは思い違いをしている。彼の事はただ悲しい……彼の家族の話も。でも違うんです。僕はあなたが今考えたであろうことで苦しんでるんじゃない」
僕は、
「あなたが大学の入口で、僕に気付いてくれて嬉しかった。長門さんに、もしもあなたが望むなら、あなたの中の僕の記憶を、全て消して欲しいとお願いしていました。再会時に戻るように設定された記憶は、解除されないよう書換えることも出来た。でもあなたは僕を見た。僕を認識して、駆け下りてきてくれた。覚えていてもらえたんだと、叫びたい程嬉しかった。それなのに」
それに気付いてしまったら、恐怖で心臓が凍りついた。もしも、
「あの時撃たれたのが彼ではなく」
僕を庇って彼が撃たれたのではなく
「本当は僕が撃たれて」
僕が意識不明で
「今、この瞬間、この世界が」
もしかしたら
「僕の作り上げた夢だったとしたら」
再会の歓喜も
「この焦燥も」
今、目の前に居るあなたも、全てがアムリタの幻に沈んだまま、僕は何一つ取り戻せていないのだとしたら。
呼吸の合間に語られた言葉は、ひときわ震えた声と共に途切れた。途方に暮れたような声で呟いた古泉は、再び開いた口をまた閉じ、その上を手のひらで覆った。もしかしたらなにひとつ。くぐもった声に滲む、亡羊の嘆き。
「僕は、言ってもらえたのに。彼がもらえなかった言葉を、言ってもらえたのに。幻でもいいから会いたいと思っていたひとに会えたのに、それでもう他には何も要らないと思ったのに、幻かもしれないと気付いたら恐ろしくて、悲しくて」
そう、あれはつい昨日の事なのだ。古泉の頬を濡らし続けた涙が、恐怖に拠るものだとは毛ほども思わなかった。夜、怖い夢を見て泣きながら、俺にすがった幼い妹、あの姿を思い出したのは間違いではない。取り戻した記憶の波に揺すられて落ち着かない。感情が主観と客観で細切れに切り替わる。事実を理解したい。……そうして。
「ごめんなさい。僕は貪欲で醜い。幻でもいいと言いながら幻では嫌だとダダをこねて、全部無くした彼の事すら見ないふりで、彼は僕を庇ってくれたのに、彼を思ってではない、僕が流したのは自分の為だけの涙です」
こみあげる胸の痛みに、延ばした手は振り払われた。目の前で途方に暮れる、でかい図体の、この迷子は、
「あなたの事も、彼や、彼と同じ悲しみを抱えていたかもしれない誰かの事も、何処かに追いやって、僕は自分のことだけ怯えていました」
おまえは、
「……自分、の事しか考えていない、僕は……」
ひとでなし――……誰へとも知れぬ懺悔を目の前で続ける男に、俺は、先ほど振り払われた手をもう一度延ばし、そうして。
うつむく男の頭を思い切り殴りつけた。
1 2 3 4 5 6 7 8 Fin
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20090524 改定