熱い病




 組んだ両腕を枕にするように前へとずらし、そのまま長机の上に顔を伏せる。何時もならば向かいの席でお疲れのようですね、などと話しかけてくる胡散臭いハンサムマンは今日はいない。バイトなので、と、爽やかな笑顔で軽く手をあげ扉の向こうに消えて行った。自分が居なくても活動せよ!と高らかに申し付けて帰った今日のハルヒは、家の用事だったとは言え見た限りでは機嫌はすこぶる良ろしく、閉鎖空間が現れたと言う理由で古泉が帰宅した訳ではおそらく、ない。帰った後に何かトラブルが起きたのでもない限り。ちなみにハルヒは「みくるちゃんも優希も用事があるなら帰っていいわよ!気をつけてね!」だとさ。俺は何なんだ?古泉に至っては一度部室に顔を出して帰って行ったものの、早退の連絡は既にハルヒにだけはしていたらしい。律儀と言うか優等生の演出の一環なのか、爽やか過ぎていっそいまいましい。
 実際それならば、と済ませるべき用事があるらしい朝比奈さんと長門も、じきに帰っていったのだが。まだ帰らないんですか?と気遣わしげに問われた時に、素直に一緒に帰ればよかったのに、俺はただひとり部室に残って何をする訳でもなく、長門の無言の問にぎこちなく笑い返して、そのままふたりを見送った。
  組んだ腕をほどいてだらりと延ばして、硬くひんやりとした机にひたいを押し付ける。

『オセロでもいかがですか、ひと勝負?』

 昨日の古泉の声を思い出して、同じ台詞を小さくつぶやいた。今度こそは勝てそうな気がするんですよ、とそう言った週明けから同じ台詞で、ひと勝負がふた勝負になり、延々と。そうして一体何連敗すれば気が済むのかね。
 ひたいをべったり机につけていたそのままの姿勢で窓に顔を向ける。みっともなく潰れた顔を見る者も今は誰も――と、まで考えて顔をしかめた俺は、恨む筋合いなどない晴れた空をにらみつけた。延ばしたままだった腕を引き寄せて、右手のひらを心臓の上に押し付ける。その右手ごと抱くようにして左手を、右の肩に。この姿勢は何かに、そう体温を測らされる時の姿勢に似ているな、なとど考えたあとに、己を抱きしめながら目を閉じた。

 誰にも、言わない。

 閉じたまぶたの裏に浮かぶつくりものめいた笑顔も、時折浮かぶようになった素とおぼしき顔も、うやうやしくハルヒに傅く様も、潜めた笑いも、無駄にあまやかなその声も。近すぎる距離に驚いて飛びのく時に、揺れる空気に混じるかすかな香りも。夢をみて飛び起きる事も、携帯の画面に何度も呼び出しては閉じる、そのアドレスも。ぐるぐると無駄に思いあぐねて痛む胸も、震えを誤魔化す為に強く握り締める手も、全部を隠すために意識的にしかめられる顔も。そんな俺を見て困ったように、少し寂しげに笑うアイツの顔から俺は何時も目をそらす。痛みも、絶望も、誰にも、何も、言えるはずがない。
 風邪のひき始めに出る微熱なら薬を飲んで安静にすればいい。けれどもこれはもう手遅れだ。アイツの挙動にいちいちざわめく心臓が熱くてどうにもならない。バイトですので、と挨拶だけして消えようとするアイツの手を、とっさに掴んで引き止めそうになった。階段を駆け下りて閉鎖空間なのか、と、聞いたところで俺に何が出来るわけでもない事を、わざわざ尋ねるために追いかけそうになった。そんな自分の衝動にぎょっとして俺は、わざと乱暴にパイプ椅子に座りなおした。そんなことは言えない。言わない。俺は、

 お前が心配で心配でたまらない、だなんて。

 誰にも、お前にも勿論、言わないから、煩わせたりしないから、俺はこのままこの熱にやられてどうにかなってもかまわないから。誰に願えばいいのかわからないから、ハルヒでも他の誰でもいいから、何も言わない、言わないから神さま。どうか。

 アイツが好きだというこの世界から、
 アイツ自身が居なくなったりしませんように。




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キョン→古泉。

20090301

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